ウズベキスタン共和国 ヒヴァ 2002.09.03 - 09.05

中世の都

ヒヴァの町はアムダリヤ川下流のオアシスの町で、四方を城壁に囲まれている。2重の城壁があるが、内側の城壁の中には数多くの遺跡が残されており、ユネスコの世界文化遺産にも登録されている。雄大な自然が見所であるキルギス共和国とは対照的で、町全体が古くからの遺跡(きれいに修復がされていて新品みたいだが)で成り立っているヒヴァに来てあまりの違いに圧倒されてしまった。

ビシュケクのウズベキスタン大使館に振り回されて、ビザの残り時間が少なくなってしまった私達は、結局ビシュケクからタシュケント経由でヒバまで飛行機で飛んだ。ヒバへ一番近い飛行場はヒバから35キロ離れたウルゲンチである。ウルゲンチの空港へ着くと、タクシーの運転手が大勢客引きに来ていた。タクシー一台10ドルという人が多い中、3ドルでヒヴァまでいってくれる運転手をウェスが見つけて彼と一緒に行くことにした。ヒヴァの旧市街では闇で観光客を泊めるロシア人家族の豪邸に連れて行ってくれた。

オビィールでの外国人登録

ガイドブックに載っている所は、安宿でも一人20ドルする所しかないので、一人10ドル以内の宿はタクシーの運転手が連れて行ってくれたり、町で声をかけてくる民家に泊まるのが良いと聞いている。しかし闇の宿に泊まると一つだけ問題がある。それはウズベキスタンに滞在する外国人は、滞在する全ての町で到着後2日以内にオヴィールと呼ばれる移民局で、外国人登録をしなくてはいけない事だ。ガイドブックに載っているようなホテルは、チェックインする時に登録の手続きもやってくれて、チェックアウトする時に登録したことを証明する紙切れを渡してくれる。この登録の紙切れを出国時に提示しなくてはいけない場合があると聞いている。しかし政府に登録せずに外国人を泊めている民家では、この外国人登録が出来ないのだ。闇の宿に泊まったり、友人の家に泊めてもらう場合は、オヴィールのオフィスへ自分で出かけて外国人登録も可能のようであるが、私達はやらなかったので実際の所は分からない。途中で会った旅行者の話によると、オヴィールへ登録へ行ったら、一日につき2USドルを請求されたが、交渉して一日1ドルにしてもらったという人がいた。実際にはタシュケント空港では登録の紙切れを提示する必要がなく、また陸路でキルギス共和国へ抜けた数人も、まったく調べられなかったといっていたが、聞いた話では、ウズベキスタンからトゥルクメニスタンへ陸路で抜けた人は、登録の紙の件でもめたという事も聞いたので、どこから出国するのかにもよるのかもしれない。私達はロンリープラネットでタシュケント空港から出国する場合は、登録の紙がないと問題になる可能性が高いと書いてあったので、とても居心地の良いロシア人家庭から、登録の手続きをやってくれる民宿に翌日移動した。また、登録の紙切れには滞在期間が記入されているが、一回ブハラの宿でチェックアウトの日付がブランクの紙をくれたので、次に行ったサマルカンドでは登録が出来ない民家で格安で泊まることが出来た。

ウズベキスタン大使館に振り回される

ビシュケクにあるウズベキスタン大使館は今まで訪れた大使館の中でも最悪の大使館だ。1週間に4日しか開いていない上に、午前10時から午後1時の間に申請をしなくてはいけない。しかしたいていの日には午前10時半まで開かず、また午後1時前にはどんなに人が並んでいても閉まってしまう。ビザの申請用紙は中に入れないともらえないので、多くの申請者が中に入ってから時間をかけて申請用紙を記入し、その間は他の人は中に入れないので、一人あたりにかかる時間が膨大にかかる。大使館の外に申請用紙だけおいておけば、もっと早くなるのにどうして?大使館の前にゲートがあり、大勢並ぶ人々の中からガードマンが一人づつ人を選んで中にいれる。大使館で英語を話せる人はひとりもいないので、急いでいる人や特殊なニーズのある人は大変だ。日本人は招待状も必要ないし、ビザ代もただ(手数料100ソムー約2USドル)なので他の国の人よりはかなり楽であるといえるかもしれない。日本人の場合、パスポートのコピーと写真を1枚用意して、ビザ申請用紙に記入してビザの申請をする。申請した時に事務員からたいてい1週間後の日付を言い渡されて、もう一度朝に並びなおしてパスポートを事務員に預ける。すると同じ日の午後3時にビザが発行される。こう書いてみると簡単だが、申請やパスポートを渡すために大使館へ入るのが難題だ。私の場合は、最初の申請は2時間待って、12時頃に大使館に入る事が出来た。しかしパスポートを渡す時になって、いろいろとトラブルがあり、大使館に入れるまでに1週間かかってしまった。

まず週明けの第一日目は大使館が停電なので、明日来いと言い渡された。第2日目は午後1時過ぎになり、中に入れずガードマンから午後3時にまた来いといわれた。午後3時に来てみると、中には入れたが事務員から明日の朝でないとだめだと言われた。第3日目には9時半から来て並んだが、また午後1時まで待っても中に入れずで追い返された。翌日はウズベキスタンの連休前の最後のチャンスだ。ウェスは私とは別のプロセスなので(招待状が必要だが、大使館には一日だけ行けばよい)、すでにビザを取得して、招待状代とビザ代で100USドル支払った後だった。そしていろいろ手違いがあり、ウェスのビザの日付は既に6日前にスタートしてしまっていて、どうしてもその日にビザを手に入れないと、ウズベキスタンにいられる期間が少なくなってしまうだけでなく、私達のキルギスのビザも切れてしまう。その日から電話予約を取り出したようなので、ホテルに帰ってホテルの人にお願いして(大使館の人はロシア語しか話せない)、予約の電話をいれてもらった。しかし電話の相手は明日はもう予約はいっぱいだから連休後にもう一度電話しろという。もう3日続けて大使館に行っているのだと懇願しても、いっこうに埒があがらない。最後の手段でその日の朝ビザの申請に来ていた、旅行会社の女性(ウェスが招待状を作った所だったので顔を覚えていた)にお願いしたら、彼女が午後にパスポートを取りに行くときに大使館の人に説明して予約リストに名前をいれてもらえるよう頼んでくれる事になった。翌日大使館へ行ってみると、予約リストの一番目に名前が載っていたので、無事大使館の中に入りパスポートを残す事が出来た。そして午後3時にはようやくビザを取得出来た。

大使館の中に入る順番はガードマンの人が決めるので、たとえ予約が入ってなくても現地の人の中には、なんだかんだとロシア語で話して割り込みさせてしてもらっている人もかなり多かった。しかし現地の人でも押しの強くない人は他の観光客と一緒に、何時間も待っている人もいた。よく分からないシステムだ。今までの経験では、たいてい大使館での経験からその国での経験を予測する事が出来る。この調子ではウズベキスタンではかなり大変な思いをするかもしれない。

ヒヴァでの一番の目印となる、カルタ・ミナルは未完成のミナレットだ。完成していたら70〜80メートルの高さになっていただろうとのことだ。現在の高さは26メートルで、青のタイル模様が美しいミナレットだ。
イスラーム・フッジャ・ミナレットはヒヴァの旧市街で一番高いミナレットで、どこにいてもよく目に付く。ミナレットを建設したイスラーム・フッジャは、ヒヴァの統治者(ハーン)の大臣だったが、教養があり進歩的な大臣だった彼はあまりにも人々の間で人気が高まった為、ハーンと僧侶達の陰謀で殺害されたそうだ。
パフラヴァン・マフムド廟のドームはヒヴァの旧市街で一番大きい。中には伝説の泉があり、この水を飲むと男性は強くなり、女性は美しくなると言われている。私達がいたときには、結婚式のグループが来ていて、皆我先にと競って水を飲んでいた。
美しいタイルで装飾されている、元神学校であったムハンマド・アミン・ハーン・メドレセは現在ヒバホテルとして、パッケージツアーグループ等に利用されている。

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