ネパール エベレスト(ソロクンブ地域) 2001.11.15 - 2001.12.1

ロブチェ東峰登頂

ウェスの夢のひとつは、氷河を歩いたり氷を登る(アイスクライム)訓練を受ける事だ。フランスのシャーモニーでアイスクライムを教える人に出会ったが、さすがにフランスでは費用がかかり過ぎるのであきらめた。ネパールに来てからもっと手頃な値段で同じようなコースを受けられるだけでなく、コースの一環として6000メートル級の山に登頂も出来る事を知り、さっそく調査を始めた。

カトマンドゥには、はいて捨てるほど数多くの旅行会社があるが、アイスクライムのコースを提供する旅行会社は数が限られている。3つの会社と話してみて一番安心して任せられると思ったのが、ラジャン率いるFar Outである。ラジャンは、ネパールとインドのロック・クライミングとアイス・クライミングの指導資格を持ち、現在英国の指導資格を取得途中である。1時間位ラジャンと話し合って、彼なら安心して任せられると確信出来た。

まず、アンナプルナ連峰一周をポーターなしで歩き体力をつけ、その後にアイスクライムの訓練を受け、標高6119メートルのロブチェ東峰に挑むことにした。値段は4人以上になると100ドル安くなるので、私達がチベットに行っている間に他の客を探してもらった。チベットに行っている間に他に2人見つかり、アンナプルナから帰ってくるともう1人増えていて、合計5人の生徒が揃った事になった。

アイスクライムの講習会はエベレスト地域のルクラという町から6〜7日間歩いた所にある、標高4800メートルのゾンラ(Dzongla)という場所から始まる。私達はカトマンドゥからスリル満点の飛行機でルクラへ飛び、そこから自力で待ち合わせ場所までゆっくりと高度順応しながら7日間歩き、待ち合わせ場所で2人のインストラクターと5人のキッチンスタッフと合流してから、テントに寝泊りして、約5000メートルに2泊、4800メートルのゾンラに1泊、5300メートルに1泊して途中各種の講習を受けながら、5日目にロブチェ東峰に登頂した。

アンナプルナ地域での20日間のトレッキングで体力もつき高度順応も出来たと思っていたが、ネパールの6000メートル級の山は厳しく私達を迎え入れた。二人とも思いがけない所で、高度の影響を受けた。今回の旅は、今までの人生で一番過酷な精神と肉体への挑戦となったのであった。

宿と食事:4000メートルを超える高所を除いて、途中宿泊や食事が出来る宿のある村々は1時間から2時間おき位にあるので、その日の体調に合わせて休憩時間や宿泊先の選択は自由自在に出来る。エベレスト地域の宿はホットシャワーは別料金で宿泊料よりも高い所が多い。食事は山奥でこんなに選択肢があるのかと感動する程バラエティーに富んでいる。山奥に入れば入るほど値段がだんだん上がるが、必要な材料はポーターやヤク等を利用して何日もかけて運ばなくてはいけないことを考えると仕方がない。毛布を置いていない所もあるので、11月でのトレッキング中は寝袋は必需品であった。特に4000メートルを越える所では暖かい寝袋がないと夜寝るのも困難である。

予算:エベレスト地域のトレッキングに必要な費用は、だいたい平均して一人一日1000ルピー(約1600円)位だ。この費用は宿泊費、3度の食事代を含む。

飲み水:ミネラル水のプラスティック容器が環境破壊の原因のひとつとなっている。山奥でのリサイクルはほとんど不可能なので、その辺に捨てられたままになるのが現状のようだ。水道水や川の水をフィルターやヨード液(または錠剤)を使って飲み水を確保するよう推奨している。私達は多少重量を増やすが、変な味のつかないフィルターを運んた。

トレッキング許可証:サガルマタ国立公園内(エベレスト地域)をトレッキングするには、入場料を納めて許可証を取得する必要がある。カトマンドゥのACAPオフィスか登山道沿いにある国立公園事務所で取得する事が出来る。どちらでも料金は1000ルピーである。

トレッキングピーク登山許可証:ロブチェ東峰はネパール政府から「トレッキングピーク」に分類分けされており、特別な登山許可証が必要だ。許可証にかかる費用は、4人までのグループあたりUS$350で、5人目からは1人あたりUS$40追加料金を払う。

ガイドとポーター:普通のトレッキング・ルートに沿って歩くなら、登山道は分りやすいので道を知るためにガイドを雇う必要はない。また、ポーターは途中の村で雇うことも可能だ(奥に歩けば歩くほど値段は高くなる)。

第1日目(11月15日)カトマンドゥ〜パクディン
歩き時間(お昼等の休憩時間を除く):3時間

アンナプルナトレッキングからの疲れがまだ残っているようで、朝の目覚めが非常に悪かった。ポカラとカトマンドゥで過ごした数日の間も、よくまた懲りずに今まで登ったどの山より高い6000メートル級の山に登ろうと思うなと、自分で自分に呆れてしまった。

カトマンドゥからルクラへのフライトはキャンセルになったり何時間も遅れたりすると聞いていたが、運良く1時間ちょっと遅れただけで、朝8:10には空港を出発した。20人乗りの小さな飛行機が山間のルクラの町に近づいて来た時、「えっ、あそこに着陸するの!」とどきどきしてしまった。標高2840メートルにあるルクラの町は、空から見ると山の中腹を削って平らな所をほんの少し作り、建物と空港を建てたようにも見えた。でも滑走路がきれいに舗装してあるのにはほっとした。しかし着陸を失敗したらそのまま山に激突である。空からは分わからなかったが、かなりの傾斜のある滑走路に私達が乗った飛行機が近づいて行き、もうちょっとで着陸という時になって、突然操縦席から警報の音と共に赤いランプが点滅しているのが見えた。「ひえーっ!いったいどうなるの?」と思っていると、機体は一度上にふわっと浮いた後、がつんというすごい音と振動と共に着陸した。急ブレーキとともに乗客は全員前のめりになり、皆で「ひゃー怖かったあ」「心臓止まるかと思った」とわいわいと大騒ぎをしながら飛行機を後にした。ターミナルと思える小屋方面に歩いていると、次の飛行機が着陸態勢に入っていた。これはシャッターチャンスと、カメラを手に取るウェスと一緒に滑走路の脇で見物した。上に向かって傾斜のある滑走路への着陸は、なんともいえない迫力がある。今度の機長さんは私達の飛行機の機長さんよりずいぶん上手な人で、スムーズに着陸が終わった。

荷物を受け取り、今夜の宿泊予定の村パクディンへ向かった。ごみごみしていて賑やかなルクラの町を一歩出ると、急に静けさが私達を包んだ。そして周りの景色を見ていると、今まで歩いてきたアンナプルナとどこか違う。咲いている花の種類がまったく違う以外には、何が違うのか分からないのだが、何かが違う。緑はもっと濃い緑にも見えるし、段々畑の作り方も違う気がする。とにかく想像していた以上に景色がきれいなのだ。そして歩いていて通り過ぎる村々の建物は、造りがしっかりしていて、窓枠等もきれいな色に塗ってある。畑や畑へ続く小道も手入れが隅々まで行き届いており、見ていて気持ちがよい。アンナプルナで荷物運びに活躍していたのは、ロバの隊商であったが、エベレスト地域では、ロバが牛とヤクの交配種であるジョブケに変わっていた。ロバの場合は1隊商につき約10匹以上も引き連れていたが、ジョブケの隊商は4〜5匹に限られていた。そして住んでいる人々の様子も違う。アンナプルナ地域で見た村の人々は、いったいいつ体を洗ったのだろうかと考え込んでしまう程、大人も子供の体中黒ずんで埃っぽかったのが、今日見かけた人々は皆とてもこぎれいにしているのだ。今週はヒンドゥー教のお祭りなので、特別に全員体を洗ったのかどうかは分からない。

ルクラから約3時間でついた今夜の宿泊地パクディンでも村の人々が太鼓や笛の音をお囃子に、歌ったり踊ったりを続けていた。

そういえばカトマンドゥでもお祭り気分が盛り上がっていて、町中にろうそくの灯りがともり、店の前では花や穀物や色のついた粉等を使って、道路に複雑な模様の飾りつけがされていた。人々が額につける赤い粉とオレンジの花環で飾られたワンちゃんにもお目にかかった。夜には歌いながら店を周り小銭をもらう子供たちや爆竹の音でずいぶん賑やかであった。お金をもらうまで延々と歌いやめない子供たちと、あまりうるさいと商売の邪魔になるのでお金をあげないわけには行かない商店主とのやりとりが面白くって笑ってしまった。そして商店やレストランやホテルの従業員たちもかつて自分達が小さい時には同じように小銭もらいに町を周っていたので、余計にあげないわけにはいかないのであろう。

夕飯時に、トレッキングをもう少しで終える所のカナダ人女性とガイドから、先週と先々週立て続けに、グループでトレッキングをしていた日本人登山客2人が高山病で亡くなった話を聞いた。エベレスト・ベースキャンプ・トレイルは飛行機でルクラへ行き歩き始めると、高度が急に上がることになる。数日間で標高4000メートル位にたどり着いてしまう為、高度順応が出来ず重度の高山病にかかってしまうケースが多いそうだ。個人で歩いている場合は、具合が悪くなったら早めに歩きやめて予定より早く宿泊したり、同じ高度で連泊したり、場合によってはすぐに山を下りることも簡単に出来るが、グループの場合は決められたスケジュールがあり、つい無理をしてしまい、最悪の事態に陥ることが多々あるそうだ。また、個人登山客よりグループ登山客にまた登頂を目的にする人々より、トレッキング目的にする登山客に死者が多いといわれている。

ルクラで飛行機を降りると、ヒマラヤの山々と美しい花が迎えてくれる。。

 

第2日目(11月16日)パクディン〜ナムチェバザール
歩き時間:5時間半

朝6時過ぎに目が覚めて一番先に思ったことは、「歩きたくないよお」だった。まだ始まったばかりなのに、この調子では先が思いやられる。昨夜はお祭りの一環で夜中次から次へと別のグループがやってきて大声で歌っていた。お金をもらうまで歌い終わらない彼らの歌声に何度も目を覚まされた、私たちの寝起きはむちゃくちゃ悪かったのだ。最初の1から2時間は調子よく歩いていたのだが、だんだんとバックパックが重く感じだし、標高3200メートルを超えたあたりから足が思うように動かなくなりだした。途中昼休みをしようと思っていた村を知らないうちに通り過ぎてしまい、気が付いたらナムチェバザールへ向かう急な登り道にたどり着いてしまった。あまりにも遅いのにしびれを切らしたウェスがアイスクライム用のプラスティックブーツを持ってくれた。ウェスはお腹が空いて先を急ぎたいのに、私はなかなか先に進めない。ナムチェまであと250メートル登れば良いという所で、ウェスが私のバックパックを少し持ってくれた。あと80メートルという所で気が遠くなり、おいしい匂いに惹かれて何の看板も出ていない建物の中を覗いて見ると、ポーターらしき人々がお昼を食べていた。ふらふらと中に入ると、私達も食べられると言ってくれた。カレー味の辛いジャガイモと揚げパンで一人35ルピー(50円)で驚くほどおいしく、お腹いっぱいになった。少し休憩してから歩き出すと、嘘のように元気が戻っていた。すきっ腹で歩くのは本当に体に悪い。

ナムチェバザールの町は、山間の斜面に巨大な円形劇場のような形に作られている。名前の通り大きなバザールが毎週土曜日に開かれ(明日は運良くマーケットの日)、ナムチェより高度が低い町からはヤクと牛の交配種であるジョブケが、高度が高い町からは純種のヤクが荷物を山のように積んで続々と町に到着していた。人間のポーターも負けてはいない。バスケットいっぱいに塩漬け肉や鶏、他の生鮮食品をつんで、ゆっくりながらもしっかりとした足取りでナムチェの町へ向かっていた。

ナムチェには銀行やインターネットカフェまである。数多くあるお土産物屋ではチベット風の民芸品やアクセサリーの数々を売っていて、町をアクセサリー等を見て歩くのも結構面白かった。11月中旬の標高3420メートルのナムチェバザールは、10月のアンナプルナ地域の標高4400メートル位の寒さだった。この標高でこんなに寒かったら、いったい5300メートルのテント生活はどれだけ寒いのだろうか。

 

第3日目(11月17日)ナムチェバザール〜テンボチェ
歩き時間:4時間半

ナムチェバザールでは高度順応の為にほとんどの人が2泊する。私達はアンナプルナ1周で高度順応が出来ているはずなので、前日調子が悪かった私の体調次第で2泊するかどうかを決めることにした。朝起きてからまず土曜日マーケットの見物に行き、朝ご飯を食べた後でナムチェで連泊せずに歩き出すことにした。今日は最初からウェスがプラスチックブーツを運んでくれたせいか、きちんとお昼休憩をとったせいか、目的地の標高3860メートルのテンボチェまで気が遠くなるような思いもせず元気にたどり着いた。途中の景色もすばらしく、初めて来て良かったと思え先が楽しみになってきた。出発してからずっと途中で引き返す可能性が頭をちらついていたが、ようやく前向きに考えられるようになってきた。

テンボチェには大きなチベット寺院がある。宿で祈祷用スカーフを買い、僧がお祈りをしている時間(毎日朝6時と午後3時の2回、僧が祈祷をあげるときに寺院内が一般開放される)に行き、二人で無事にロブチェ東峰にたどり着く事をお祈りしてスカーフを納めてきた。

 

第4日目(11月18日)テンボチェ〜ディンボチェ
歩き時間:4時間

テンボチェからの朝の景色は信じられないほどすばらしかった。アマダブランやタマセルク峰が目の前にそびえ立っているだけでなく、ヌプチェやエベレスト等のエベレスト連峰も朝日に輝いていた。テンボチェのチベット寺院の裏にまわると、アマダブランとエベレスト連峰を従えるチベット寺院が見られる。本当にきれいで思わず涙ぐんでしまった。

しかし歩き出してからはどんどん調子が悪くなっていった。お昼休憩の時にはエネルギーがまったくなく、食べてからも力が入らない。ディンボチェの近くでは少し頭痛がはじまり宿についてからは食欲もなくなっていた。ものすごい肩こりになり、ウェスが長い間揉んでくれてずいぶんよくなった。

テンボチェで朝起きてみると、地面は霜で覆われていて、テントやヤクも真っ白だった。キャンプしている人は前日洗濯をして夜の間外に干していたが、朝にはカチカチに凍っていた。

 

第5日目(11月19日)ディンボチェで休憩日(ウェスはチュクンリーまで日帰り)
歩き時間:30分(ウェスは7時間半)

ウェスはチュクンリー(5550メートル)まで高度順応の為に日帰りで登る為、朝5時に出かけた。私はうつらうつらしながら8時半まで寝て、朝食後裏山に少し登り出したが、30分登ったら頭痛がひどくなり、気分が悪くなってきた。頭痛薬を飲み休み休み少しづつ登ったが、頭痛薬はぜんぜん効かず、気分がどんどん悪くなるので、やきらめてすぐ下った。宿について日のあたるサンルームで横になって休んだ。まだこんなに低い標高で高山病になっていたら6119メートルのロブチェ東峰はもとのほか、5200メートルの最初のキャンプ地でさえたどり着けるかどうかあやしいと思うと、悔し涙が止まらなくなった。長い間楽しみにしていた自分に対する挑戦だったし、また払ってしまったお金ももったいない。

しかし、しばらく横になっていたらずいぶん気分が良くなり、夕飯時には食欲も出てきて、この調子ならもう少しがんばれそうだ。

 

第6日目(11月20日)ディンボチェ〜ドゥグラ
歩き時間:3時間半

今日は2時間しか歩かない予定なので、寝坊してゆっくり朝ご飯を食べてから出発した。ディンボチェですでに高山病になってしまったので、今日は標高200メートルだけ登り1泊することにした。昨日頭痛と吐き気で先に進めなくなってしまった地点を無事通過した後は、見晴らしのよい比較的平らな道を楽々と歩いて、ドゥグラに到着した。

午後はカラパタール方面、4800メートル地点にあるエベレストで亡くなった人々の記念碑まで高度順応のために登った。霧がたち込める中で亡くなった人々の名前を見ていると、ちょっと怖くなってきた。

夜はストーブを囲んで宿泊客と一緒に楽しい会話を交わした。
 

ディンボチェの町のすぐ上にある卒塔婆からは祈祷旗がはためいている。

エベレストへ行く途中、標高4800メートルにあるエベレストで亡くなった人々の記念碑。

 

第7日目(11月21日)ドゥグラ〜ゾンラ
歩き時間:3時間

朝起きて少し頭がふらふらした。湖までの道で昨日とはまったく様子が違い、調子が悪いことに気が付いた。エネルギーがまったくなく足がなかなか前に進まない。道を少し間違えてかなり急な斜面を200メートルほど登らなくてはならないはめになった時、みかねたウェスが私のバックパックを持ってくれた。結局宿から20分位の所までウェスがバックパックを持ってくれたが、それでも歩くスピードはまったく上がらなく、いったいどうしてしまったのだろうかという感じだった。ウェスは途中足をくじいてしまい散々な一日だった。

宿について他の宿泊客と話をしていたら、急に目の焦点が合わなくなってきた。だんだんとひどくなってきて、目の前にいる人の顔がまったく見えなくなってしまった。高度の影響かどうかわからないが、とても怖い思いをした。しばらくするとだんだんと視力が戻ってきて、頭痛もないし吐き気もないのでとりあえず様子を見ることにした。昼も夜も普通に食べることが出来たので、明日から始まるトレーニングには参加できそうだ。しかし明日は5200メートルでキャンプするので高度に順応できるかが多少不安である。 

チョーラショー湖の表面には氷が張っていて、日の光にあたり少しずつひびが割れる音が静寂を破る。毎日だんだんと温度が下がるにつれ湖をおおう氷の面積が大きくなる。6日後に湖の脇を通った時には、氷の面積は何倍にもなっていた。

 

第8日目(11月22日)アイスクライム講習会第1日目

昨日の午後にゾンラの宿で、他の3人の講習会参加者と7人のスタッフと合流した。3人の参加者はブラジル人のフェルナンド、エレーナ、ケンジで、エレーナとケンジは日系ブラジル3世で日本に8年間住んでいたため、日本語でも会話が出来た。スタッフは、ガイドのラジャン、アシスタントガイドのジャベット、コックのシバ、4人のポーター兼キッチンボーイである。

朝ご飯の後、次の2日間のベースとなるキャンプ地に歩いた。行って見たら5200メートルではなく、4960メートルしか標高がないのに、私は頭痛が始まってしまった。試しに頭痛薬を2錠飲んでみた。テントを張った後、アイスクライムの装備の説明を受け、昼ご飯の後は崖の上からローブを使って降りるアブセーリングの練習をした。アイスクライムの装備の説明の途中から私の調子がおかしくなり、頭痛がひどくなってきて意識が朦朧として、説明に集中出来なくなってきたので、ダイアモックス(高山病を予防する薬)を半錠飲んでみた。しばらくすると調子が良くなってきたのでどうやら薬が効いたようだ。夕飯もまあまあ食べれて、夕飯後のロープの結び方の講習会でも集中出来たが、終わりのほうでまた意識が朦朧としてきたので、早めにテントに戻った。その夜はダイアモックスの影響でトイレが近くなり2度も凍えながら外に出て、テントに帰ってくると寒くてなかなか寝付くことが出来なかった。しかしダイアモックスのおかげか頭痛はいつの間にかなくなっていた。

 

第9日目(11月23日)アイスクライム講習会第2日目

朝キッチンボーイの一人が熱い紅茶をテントまで運んで、私達を起こしてくれた時のテント内の温度はマイナス5度。体の芯まで冷え込む寒さである。太陽が出るまでは何をしていてもとにかく寒い。この日の朝、ガイドのラジャンの彼女で、ネパール人女性で初めて北側からエベレスト登頂に成功したペンバが合流した。朝食後氷河の上でのトレーニングの為、チョーラ峠へ向かった。標高約5300メートルで生まれて初めて氷河の上を歩いた。氷河は絶えず動いている物なので、その上を歩くのは非常に危ないと聞いていたが、怖いという気持ちよりも、青白く輝く氷河の上をアイゼンをつけてサクサクと音をさせながら歩くことの感激のほうが大きかった。アイゼンをつけて、斜面の角度によって変わる歩き方を数種類教わり、ロープをつけてグループでの歩き方、雪の上で転び滑ってしまった時の自己救助とグループ救助の仕方、グループのメンバーが氷河の割れ目に落ちてしまったときの救助の仕方を教わった。5300メートルまでキッチンボーイ達が運んでくれたおいしい昼食の後は、日がかげってあまりにも寒くなり、氷河の壁をロープを使って下降するのはスキップする事にした。

この日の夕飯は特においしく、たくさん食べる事が出来た。シバ率いるキッチンスタッフが作ってくれるご飯は毎食変化があり、栄養に富んでいて毎回楽しい驚きである。5人とも食欲旺盛なので、食料が最後までもつのか不安だねと言い合っている。食後はキッチンスタッフがはじめたキャンプファイアの周りでおしゃべりをしながら、火の温かさに改めて驚いた。今日の夜はトイレに起きる事もなく、暖かくぐっすり眠ることが出来た。

チョーラ峠からチョーラ・バレーを見下ろした所。2日前に宿泊したゾンラの先には標高6856メートルのアマダブランがそびえている。

チョーラ氷河でアイスクライムの講習会を始めた所。

 

第10日目(11月24日)アイスクライム講習会第3日目

今日はロープの結び方の復習と、新しい結び方を数種類習い、その後はゾンラに帰るだけの休憩日だ。朝はゆっくりと7時半に温かい紅茶で起こされて、太陽が出た後に朝食を食べ始めたのでとても楽だった。朝食後ロープを使ってのストレッチャーの作り方を教えてもらった。今まで習ったロープの結び方を応用したストレッチャーにはとても感心した。その後また新しいロープの結び方をいくつか習って、ゾンラに戻った。昼食後は自由時間で、洗濯したり復習したりと人それぞれ好きに過ごした。この日の晩エレナは、ひざの痛みのため登頂は断念し山を下ることにした。

ロープを利用して作ったストレッチャーに横たわるのは、患者としてボランティアしたフェルナンド。

 

第11日目(11月25日)ゾンラ〜ロブチェ東峰ハイキャンプ
歩き時間:3時間

日が出てからゆっくりと起き、朝食の後ロブチェ東峰のハイキャンプへ向かった。途中またエネルギーがなくなり苦労していたら、アシスタントガアイドのジェベットが私が大丈夫だからというのも聞かずに私のバックパックを持って歩き出してしまった。

ハイキャンプからの眺めは今まで以上にすばらしく、この眺めの為だけにでも来て良かったと思える程だった。標高5300メートルにいて、四方からそれより1000から300メートル高い山に囲まれるという経験はめったに出来るものではない。景色を楽しみながら昼ご飯を食べた後明日の準備をしていると、フェルナンドの調子がおかしくなってきた。どうやら高山病のようだ。何度も吐いてしまい食べ物はおろか水分も受け付けられない。ラジャンは今すぐ高度の低いところに降りるよう勧めたが、本人の希望でキャンプ地で夜を過ごすことになった。しかし真夜中頃またテントの外で吐いている音がした後、すぐにラジャンが起き出しフェルナンドがゾンラの宿まで二人のエスコート付で下れるよう手配をした。5人の中で一番高山病になる可能性が低いと思われたのが、フェルナンドだった。過去40日間ネパールでトレッキングをしていて、1週間前には6187メートルのアイランド峰の登頂に成功しているのだ。高山病は本当に予期できない。症状は吐き気や頭痛のような軽いものから、ひどくなると意識をなくしたり、最悪の場合は死につながる事もある。重度の高山病を治す唯一の方法は、山を降りることである。
 

標高5300メートルに設置されたハイキャンプでも、顧客用の冬用テント、台所用テント、食堂テントを張り、おいしい食事を作ってもらい、洗顔用の温かいお湯までもらえるとは、信じられない贅沢だ。

 

第12日目(11月26日)ハイキャンプ〜ロブチェ東峰フォールスピーク
歩き時間:10時間

今日はとうとう登頂の日である。午前2時に温かい紅茶がテントに運ばれてきた。昨夜は二人とも10時半にトイレに行ったときに目が覚めてから眠れなくなり、数時間しか寝ていないのだが、思ったより調子が良かった。朝食に出されたラーメンもゆで卵も食べ、予定よりずいぶん遅れて午前3時半には頂上を目指して出発した。

昨晩は風が遮られる地形の所にキャンプ地があるせいか、450メートル位標高が低いゾンラで過ごした夜よりもずいぶん暖かく感じた。午前3時半に歩き出した時も、ぜんぜん寒く感じなかった。

なれないプラスチックブーツで滑りやすい急な岩場を歩くつらい2時間の後には、もっとつらい雪と氷の道が待っていた。ネパールで約30日間ポーターなしでトレッキングをして体を鍛えたと思っていたが、この日の試練に対しては精神的にも体力的にもまったく準備不足であった。雪の部分からはアイゼンとハーネスをを付け2グループに分かれ、ラジャンとラジャンの彼女のペンバとケンジがひとつのロープで繋がれ、ジャベットと私達が別のロープでつながれた。ただでさえ空気が薄くて体が思うように動かないのに、雪と氷に覆われる、ほとんど45度位の傾斜のある斜面、時にはそれよりも急な斜面を両手両足使って歩くのは、想像以上の体力と忍耐力が必要だった。とにかく一歩足を上げてアイゼンを雪に食い込ませるのが重労働なのだ。数歩歩いて息をつき、また重い足を持ち上げるを繰り返し、ようやく9時半にフォールスサミット(本物の頂上の手前にある最初のピーク)にたどり着いた。たどり着いたときにはあまりにつらくて涙が出てきた。キリマンジャロの頂上に着いた時は、感激の涙が止まらなかったのとは大違いだ。フォールスサミットから本物の頂上までは、今まで以上に技術力を要する難しい道だ。ガイドのラジャンの判断で、私達はこれ以上は進まないことになった。

山を登る時には無事に山を下るまで登頂が終了したことにならない。今回はその鉄則が痛いほど身にしみて分かった。急な斜面をロープにつながれながらゆっくりと順番に降りて来る時に、ウェスとケンジが立て続けに具合が悪くなったのだ。特にウェスの症状は、周りの人々が心配で怖くなってしまう程ひどいものだった。まず異常に気が付いたのは、ロープをアイスアックスに固定するための特定の結び方が突然出来なくなった時だった。次に腸のコントロールが出来なくなり、まだ危険な急な斜面の所にいるというのにがまんができなくて、その場でハーネスをはずして用を足さなくてはいけなくなった。そして脳の機能がだんだんと落ちてきて、腕を動かすことが出来なくなり、また文章を作ることが難しくなり出し、普通にしゃべることが出来なくなってしまった。急に体が寒くなり震えているのだが、ジャケットがどこにあるのかも分からず、一人で脱ぐ事も着る事も出来なかった。

この間ジャベットと私がそばにいて、ダイアモックスや鎮痛剤を飲ませたり、ジャケットを着せたりと世話をしていたのだが、どんどんと悪化する症状に二人とも不安がつのっていた。この時ウェスは重度の高山病のひとつであり、脳に水がたまり脳の機能がだんだんと停止するhigh-altitude cerebral edema (HACE)にかかったと確信し、急いで山を降りないと生きては帰れないという事は混乱する頭の中で意識が出来ていた。

とりあえず私がロープの先頭に立ち、ウェスが真ん中、そしてウェスのすぐ後ろにジャベット付き添うように付き、ウェスが転んでもすぐ助けられる体制に入った。先に下りだしたラジャン達に追いついてからは、ラジャンもウェスの後ろに付き二人がかりでウェスをサポートしてくれた。標高約5600メートルあたりまで下りた所で、ウェスの症状が良くなり出した。はっきりとしゃべる事が出来るようになり、また正常に考えをまとめることが可能になった。標高5500メートルからは、助けなしで下りる事が出来た。しかし、ハイキャンプまでの道のりは信じられないほど遠くに感じた。ようやくテントが見えるようになってもなかなか到着しない。そんな時キッチンボーイの一人が温かい飲み物を持って山を登り私達に運んできてくれた。なんというサービスの良さだろうか。

ハイキャンプに到着する頃には、ウェスの症状もほぼ正常に戻った。まだ気分が悪いケンジはゾンラまで下る事にしたが、私達はハイキャンプにもう一泊する事にした。もう冷たくなってしまったお昼ご飯を食べ、夕飯はいらないからとキッチンに伝えて、テントで早くから寝ることにした。
 

標高5600メートルの平らなところで、これからの急な斜面の登りに向けてロープを付けている所。

朝6時半頃には、すばらしい朝日を見る事が出来た。

ロブチェ東峰のフォールスピークから見たヌプチェとその左から覗いているエベレスト。ずっと下にはクンブ氷河が見える。

ロブチェ東峰のはるか下に数日間講習会を受けたチョーラ峠が見える。

 

第13日目(11月27日)ハイキャンプ〜ペリチェ
歩き時間:4時間半

今日は私達の結婚8周年記念日だ。朝日が昇る前に目が覚めてしまった。テントの内側は私達の息が凍って、ちょっとでもテントに触れると、テントの中に雪が降った。太陽が出るまで、凍えながら辛抱強く待った。標高5300メートルで結婚記念日を迎えるのはかけがえのない経験だが、今後はもっと暖かい所で祝おうとう事で合意した。

朝日の中で朝食を食べた後、5日間お世話になったスタッフとお別れして下界を目指した。途中ウェスがゾンラに残した荷物を取りに行き、ペリチェまで行った。毎日開かれる高山病のセミナーに参加して、私達が経験した症状をアメリカ人医師に話してみると、彼は二人ともMRI(脳のスキャン)を念の為したほうが良いと言う。多分なんでもないと思うが、もしかしたら脳に異常がある場合、若い時には体がその異常をカバーできる能力を持っているが、年をとった時にその能力を失い以上が表に出てくるケースがある。また、高い標高の所にいくと異常をカバーする能力を失い、ウェスの場合のように一時的な卒中となって出てくることがあるそうなのだ。

 

第14日目(11月28日)ペリチェ〜ナムチェバザール
歩き時間:7時間

ペリチェからナムチェバザールまでの戻り道は長い長い道のりだった。ペンバの家族はナムチェバザールで宿を経営していて、前もって今日の晩と明日の晩の予約を入れていたので、がんばってたどり着かなくてはいけない。宿に着くとペンバだけでなく、ラジャン、フェルナンド、ジェベット、そしてシバまでが勢揃いしていてまるで同窓会のようだった。その夜ジェベットとシバは別の宿に泊まっていたので、ラジャンとフェルナンドと一緒にそれぞれの体験談を語り合った。ラジャン曰く、「クライエントの一人は高山病でゾンラにいて、もう一人は急な雪の斜面で用を足していて、もう一人はあちこちで吐きまくっている。最悪だ。」その時は死ぬ思いだったが、今となってはお腹を抱えて笑う事が出来るようになった。

 

第15日目(11月29日)ナムチェバザールで休憩日
歩き時間:2時間

今日は行きに時間がなくて見る事が出来なかった、ナムチェから1時間登った所にある一泊US300ドルするエベレスト・ビュー・ホテルとクムジュンの町まで遊びに行く事にした。標高3870メートルにあるエベレスト・ビュー・ホテルは、目を疑う程の高級ホテルだった。客のほとんどが日本人のようで、話によると何日も歩く時間のない客はカトマンドゥからホテル近くまでヘリコプターで運ばれ、その後酸素ボンベをつけてヤクの背に乗せられてホテルまで連れて来られるそうである。

このホテルに泊まる事は出来ない登山客でも、昼間にレストランで飲み物を頼んでテラスからの展望を楽しむ事が出来る。私達も軽いお昼をここで食べて、すばらしい眺めを楽しんだ。その後クムジュンの町に行き、エベレストの登頂に世界で初めて成功したエドモンド・ヒラリー卿が出資した学校の青空教室を見学して、ナムチェ・バザールに戻った。ナムチェのパン屋にチョコレートケーキ食べに行ったのだが、そこで私は卵のサンドイッチを注文したのが大きな間違いであった。この日の夜食中毒になってしまったのだ。翌日の朝、同じホテルの宿泊客で、同じパン屋でオムレツを食べた人が同じ症状で苦しんでいることを知ったのだ。ペンバによると外で食べて食中毒になる人はかなりいるという。
 

エベレスト・ビュー・ホテルのテラスからの眺めを楽しむ私達。右にそびえているのがアマダブランで、エベレストは左側の峰の中から顔を出している。

 

第16日目(11月30日)ナムチェバザール〜ルクラ
歩き時間:6時間半

今日の朝も吐いて、気持ち悪い上にまったくエネルギーがない。ペンバがおかゆを作ってくれて、お客の日本人の人がうめぼしを分けてくれてようやく少し食べる事が出来た。私より一日前に食中毒になった人が、2日目と3日目の方が調子が悪くなると言っていたらしく、ウェスに説得されて具合がもっと悪くなる前にがんばって飛行場のあるルクラまで今日歩いてしまう事にした。

テントや雪山装備を全て運んでいるフェルナンドは、最後の一日は楽に過ごそうとポーターを雇っていた。優しい彼はポーターに彼の重い荷物を運んでもらって、彼が私の荷物を運んでくれる事になった。途中また目の焦点が合わなくなったり、気分が悪くなったりしたが、なんとかルクラまでたどり着くことが出来た。自分でも信じられない程がんばったと思う。

 

第17日目(12月1日)ルクラ〜カトマンドゥ

なにわともわれ、今日でネパールのトレッキングの旅は終わりである。私の体調はまだ最悪の状態だが、ネパールビザが切れる前にネパールを出国しなくてはいけない。カトマンドゥ行きの飛行機は2時間半遅れでルクラを出発した。ルクラ行きの飛行機では乗客のほとんどがこれから待ち構える冒険に心を躍らせて、外の景色を楽しんだり、写真を撮ったりしていた。しかしカトマンドゥへ帰る飛行機の中では、みな疲れ果てていて景色を見る気力もないようだった。

カトマンドゥにたどり着くと今度はウェスが食中毒になる番だった。そして、二人ともぼろぼろの体のままインドへと向かった。


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