チェコ プラハ 2000.9.22 - 2000.9.30

中央ヨーロッパの宝石

驚きの連続

ハンガリーのブダペストを出た後、ウィーンに一泊してからチェコのプラハへ向かった。ブダペストの滞在中は、うんざりする出来事が多く、いったいプラハはどういうことになるのか、不安と期待の混じった複雑な心境であった。

しかし、プラハではうれしい驚きの連続であった。まず、プラハの駅に着いた後、ロンリープラネット社のガイドブックが薦めていた、宿泊斡旋所の人々が親切できちんとしているのに感心した。そこで斡旋してもらったアパートは、ブダペストのきたならしいB&Bよりも安い上に、まずまずの広さで、自炊するのに必要な設備は全て整っていた。

また、物価が安く、レストランで食べても、数百円程度でおいしいチェコ料理が食べるのには驚いた。スーパーで買い物をすれば、500円位で二人分の3食がまかなえてしまう。街には、第二次大戦で空襲の被害を受けなかった、古くからの建物が数多く残っている。

テレビでオリンピックを観戦できる楽しみもあり、8泊もしてしまった。プラハから日帰りでいける街がいくつもあるのだが、私たちはプラハだけでのんびりしすぎて、結局テレジンに一日出かけただけだった。

プラハのレストラン

チェコ料理は、みかけはいまいちだが、味はしっかりとしていて、日本人の味覚に合うと思う。しかし、悪名高いプラハのレストランでは、期待を裏切らずに、どこで食べても会計の時になると、実際の値段より高い金額を請求された。私達の場合は、ロンリープラネットのガイドブックで注意されなかったら、きっと気がつかなかったと思われる程度の金額が上乗せされていたが、出会った旅行者の中には、倍くらいの金額を請求された人達もいた。プラハでは要注意である。

テレジン(ナチス強制収容所の街)

プラハからおんぼろバスに乗って1時間くらいの所に、テレジンの街がある。もともとは18世紀末に、神聖ローマ皇帝のヨーゼフ2世により、プルシアの攻撃から帝国を守る目的で要塞が建設された。

1940年にナチスがチェコを併合した後、テレジンの街はユダヤ人達を他の強制収容所へ送るまでの、トランジットキャンプとして利用されるようになった。表向きはユダヤ人の避難所として扱われ、視察に来た国際赤十字の人々は、2回もだまされたそうだ。数年の間に、テレジンを経由してアウシュビッツ等の強制収容所へ移送されて、死を迎えた人々は、15万人を越すと言われている。

10年以上前に、ドイツのダッハウ強制収容所を訪れた時にも、かなりの衝撃を受けたが、今回も罪のない人々が、ユダヤ人という理由だけで、動物以下の扱いを受け、多くの人達は、殺されていったことを考えると、人間が同じ人間相手にどうしてこういう行為が出来てしまったのか、不思議でならない。

私たち日本人も、同じような野蛮な行為を、第二次大戦中に東南アジアで行っていたにもかかわらず、日本国内では、あまり表立って取り上げられることが少ないように思われる。しかし、犠牲者や目撃者の子孫は、決して忘れることがない。シンガポールでも年配の方は、子供や孫が日本人の友人を作るのを快く思わない方たちが多いようだ。とても良くしてくれた同僚から、祖父母から聞いた日本兵の残酷な行動の話を聞いた時、日本の学校等では決して聞くことのなかった話に衝撃を受けると同時に、数世代前の日本人の行動を知りながら、今は私たち日本人を受け入れてくれるシンガポール人の若い世代の心の広さに、とても感動した。

ちょっと話がずれてしまったが、テレジンでは二人とも受けた衝撃が強く、頭痛が始まり、行く予定にしていた、近くの町には訪れることが出来なかった。他の町を訪れる予定の人は、テレジンを後にした方が良いと思う。


 

プラハ

旧市庁舎の前には、今でも動いている天文時計がある。現在の日にち、時間の他に、月の満ち欠けや、太陽の位置、日の出と日没の時刻を知らせる。

プラハで最も美しい建物と言われるMunicipal House。色とりどりのモザイクがとてもきれい。

チャールズ橋から見た、Vltava河畔の様子。右側には旧市街があり、左側にはプラハ城がある。
テレジン

収容所の入り口には、ドイツ語で「労働が自由を勝ち取る」と書いたサインがある。

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